300年の歴史を知る

久高 諒也公開日:更新日:

つい人に話したくなる歴史と雑学を知り、土産話に花を咲かせましょう。

おわらの歴史を辿ると、三度大きな逆境が訪れています。
そして、三度目の逆境は今まさに八尾に訪れています。

【第1波:「踊るな、さもなくば罰する!」——明治政府が盆踊りを禁じたワケとは?】

江戸時代まで庶民の楽しみだった盆踊り。

しかし、明治時代になると政府はこれを各地で禁止しました。

そう、盆踊りが禁止された時代があったのです!

信じがたいことですが、おわらも当時は警察が踊る者を取り締まっていたのです。

しかし、庶民は簡単に諦めません。禁止令をくぐり抜け、ひそかに踊る者も現れました。結果として、盆踊りは地域ごとに形を変えながら受け継がれ、現代に続いています。

弾圧を潜り抜け、さらに洗練させて残ったおわら風の盆。そう思うと、感慨深いものです

それにしても、一体なぜ明治政府は盆踊りをそんなに否定したのか?

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【第2波:海の象徴としての演舞を求められたおわら】

大正時代の政府は、弾圧よりもやわらかい統制を選ぶようになります。

健全な形に作り変え、郷土の誇り、ひいては日本国への誇りを生む装置として盆踊りを奨励することにしたのです。各地で今の形の盆踊りが生まれました。

そんな中、大正2年に「富山県主催一府八県連合共進会」という一大イベントがやってきます。そこでおわらが披され、大盛況に。

しかし、この披露会には大問題が。共進会のテーマである「海の街」に乗っ取って、おわらも海女さんの格好で海岸の絵をバックに踊ることになっていたのです。八尾は山の町です。これではまずい!

そう感じた八尾の勇士たちが立ち上がり、おわらの本場としての八尾の意識を高め、より正当な歌詞と踊りを作って広めようと闘志に燃えることになるのです。

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【第3波:現代、100年を経て疎外される八尾】

時を経るごとに、富山県のパワーバランスが海沿いの工場地帯に移り、八尾地域は徐々に衰退の道を辿ります。

しかも、富山県全体として人口が減り、高齢化が進む中、八尾町を抱える富山市が選んだ道はコンパクトシティ化。つまり、八尾から遠く離れた富山駅を中心に都市機能を集め、移住を促す方針です。

その方針以前からの流れですが、さらに追い詰められたと言って良いでしょう。さて、全国区どころか、世界に誇れる「OWARA」を守りつつ、コンパクトシティ政策をうまく進めていけるのでしょうか…。

踊りの継承者不足、来客数の低下に紐づいた収益の減少、来客者の高齢化など問題が山積み。

今こそ、二度の波を超えたように変革の時なのかもしれません。そして、変革の時にはいつもおわらの熱狂的な支援者たちがその動きを支えてきたのです!さぁ、おわらを応援しましょう!

おわら歴史クイズ!!下のおわら&八尾小話の中に答えあり!

初級編:

①おわら風の盆が誕生したと言われるのは何時代??
A. 江戸時代
B. 明治時代
C. 平安時代

中級編:

②おわらの舞台である八尾は、明治時代まである2大産業でかなり栄えていました。何と何?

③現在に残るおわらの形の基礎を作った、おわら保存会の初代会長は誰?ちなみに、越中八尾観光会館に銅像が立っています。

上級編:

④富山の薬売りたちが薩摩との密貿易によって明治維新を陰から支えたという話を描いた、主人公が八尾出身の宮本輝の歴史小説といえば?

⑤高橋治の同名小説が原作で、おわら風の盆が一躍有名になったきっかけでもある、石川さゆりさんが歌う主題歌も有名なドラマのタイトルは?

300年の歴史

【北陸に日本一人がいた時代】

1880年、日本で一番人口が多かった都道府県は“石川県”でした。ちなみに2位は新潟県。なんと、石川県183万4000人に対し、当時の東京府108万4000人。理由の一つは、1876年〜1881年まで、富山や福井の大部分が石川県に含まれていたから。とはいえ、今北陸三県の人口を合わせても東京には全く歯が立ちません。いかに北陸地域に人がいたかわかります。ちなみに、富山共進会のあった大正2年までに、富山が石川の人口を追い抜き、1975年まで富山の方が多いままでした。

【度肝抜く一大イベントが踊りを生んだ】

八尾の子どもたちは学校で習う豊年踊り。誕生の背景には、大正2年の「富山県主催一府八県連合共進会」があります。最新の乗り物やイルミネーションを導入し、なんと当時の富山県人口とほぼ同数の来場者が訪れています。その映えあるイベントで、おわらも披露されました。これを機に、見せる踊りとしての意識が強化され、今の踊りが生まれたとか。しかし、実はこのイベント、八尾民が危機感を覚えた出来事でもあって・・・

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【招き猫と蚕の関係】

八尾はかつて、蚕を育てその繭を売ったり、蚕の種(蚕種)を売ったりで栄え「蚕都」とまで呼ばれていました。しかーし、養蚕は天候や病気、さらには鼠による害の影響を受けやすく、まさに神頼みのビジネス。そんなわけで、ネズミから繭や幼虫を守り、養蚕の豊作を願う象徴として猫が信仰されるようになったと考えられています。

【100年を経て疎外される八尾】

明治の終わりから大正期にかけ、八尾の主要産業である蚕種や和紙造りは廃れ、富山県は海側を中心とした工場地帯に力点を置くようになりました。鉄道敷設にあたっても、八尾だけ長いこと置いてけぼりになりました。そして現在、コンパクトシティ化を進める富山市の施策において、八尾は周縁地域。おわらという全国区のコンテンツを富山はみすみす失ってしまうのか…

【明治維新を陰で支えた!?八尾の和紙】

富山といえば薬売りが有名。全国の隅々にまで張り巡らされた富山の売薬業者のネットワークは、幕府よりも豊富な諜報力を持っていたんだとか、いないんだとか。薩摩との密貿易によって明治維新を陰から支えた話が宮本輝の歴史小説『潮音』に描かれています。そんな富山の薬を包んでいた紙は?八尾で作られる八尾和紙だったのです・・

【曳山に残る八尾の反映の影響】

蚕で栄えた八尾の町ですが、なんと1813年(文化10)には蚕種の販路が全国に広がり、八尾の蚕種は全国の4分の1を占めるまでに。和紙の生産もすごかったし、江戸期の八尾町の繁栄はすごかった。その面影は、現在も曳山祭の絢爛豪華な曳山に残っています。かつての八尾町人たちが豊かな財力を示すかのように競って曳山を造り、絢爛豪華な曳山を6基造り上げました。

【盆踊りが犯罪だった時代】

全国に残る盆踊りですが、明治時代には政府が躍起になってぶっ潰そうとしたという歴史があります。おわらも例外ではありませんでした。政府は、欧米列強に負けぬよう、とにかく全部を改革だ!とばかりに暦も、藩も、仏教の文化遺産も、相撲も、日本語も、盆踊りも禁止しようとしたんですね。そのため、明治で途絶えた文化も大量にありますが、当時の普通の人々が命懸けで繋いだ文化は今も残っているのです。

【八尾の衰退】

昭和 49(1974)年、山間地には小学校が 13 校あったが、統廃合の結果、現在は八尾小学校と樫尾小学校の2校を残すのみとなっている。このまま人口が減り続けてしまうと町を維持できなくなってしまうかも。この状況に対し、立ち上がった人たちがどんな取り組みをしているかというと・・・

【道の両脇を流れる水】

普段の静かな八尾を訪れ、耳をすませれば、道の両脇を流れる水の音が心地いい・・。この「えんなか」と呼ばれる側溝、冬には2階の高さまで積もる雪を流す役割を、火事の時には火消しの水として使われてきた命の水なのです。明治期は10年刻みで大火災があったというこの町にとっては本当に重要な水資源だったようです。

【おわらがみんなのものになった時】

おわらは江戸時代までは粗野なもの、言ってしまえば、若い男女のどんちゃん騒ぎでした。これが八尾民にとって、みんなのものになったのは、保存会の初代会長で医師の川崎順二の影響が大きくあります。当時、若い娘を人目に触れさせるのを嫌がる風習があったのですが、 川崎は自分の娘を積極的に踊りに参加させました。それを見習った町民たちが次々と自分の娘たちを踊りに出すようになります。おわらは多くの住民たちが参加する芸能に変わっていきました。

【夜流しを知ってる?】

踊り手と地方がともに町を踊り歩く「町流し」。このうち、日中の「町流し」を「昼流し」と呼びます。これには踊り手と地方に加えて、子どもたちも参加。それぞれの町の公民館から出発して決められた順路に沿って、休憩を挟みながら、3,4時間かけて町を練り歩き、演奏と踊りを披露します。対して、「夜流し」は、観光客の減った深夜に、住民たちが自分たちの楽しみのためにするようにやるもの。気の合う者同士が少人数で自由に町を流していく。これを楽しみにしている通も多いのです。