伝説のおわら熱狂者たちを知る

川崎順二(1898~1971) 〜おわら保存会の初代会長〜

それまで卑猥な歌なども含み、一般の方が参加するものではなかったおわらを芸術の域に高めるまで変革した人物です。
当時の一流アーティストたちにおわらのプロデュースに関わってもらったり、様々な舞台演出を仕掛けたり。業績は数知れず。
詳しくはnoteにまとめました。
松永由太郎(1890~1972)

おわらの三味線に大きな影響を残した人物です。諏訪町生まれ。
若くして上京しますが、怪我や貧困により任侠の世界に長く身を置くことになります。
芸能に触れた東京時代を経て、昭和26年に故郷・鏡町で料亭を営みながら、おわらの指導を始めます。自宅に高校生や若者を集めて教え、八尾高校でも「おわら研究クラブ」の顧問を務めました。
彼の教えは今も町に息づいており、多くの三味線奏者がその流れを継いでいます。
「任侠の男が、おわらの師匠に」。その劇的な転身と情熱は、小説『風の盆おわら一代記』に克明に描かれています。
甚六会

長子(特に長男)が、将来の不安がないため、弟や妹に比べてのんびりとして世間知らずに育ってしまうことたとえで、「総領の甚六(そうりょうのじんろく)」という言葉があります。
その甚六から名をとったユーモアある八尾の経営者グループが甚六会。彼らが生きていたのは、ちょうど川崎順二と同時代。昭和初期の頃です。
『越中おわら社会学』では、赤羽一男氏が「甚六会こそが、昭和初期の八尾の文化運動の牽引者。彼らがいなかったら、今日のおわらもなかったろう」と述べています。
夜な夜な小料理屋に集まっては、政治や酒、俳句に浄瑠璃などの芸術談義に花を咲かせた彼らは、おわらを支えるのみならず、八尾を文化の町として育てていく活動の数々を企画しました。
「越中八尾民謡おわら保存会」の設立にもメンバーが関わっています。
詳しくはnoteにまとめました。
鍋田誠一
八尾出身ではないのですが、心底おわらを愛し、八尾の民になりたいと身を焦がした結果、諏訪町に家を買っちゃった人です。彼のおわら愛には、家族も呆れて何も言わなかったんだとか。
鍋田邸は、明治時代に建てられた二階建て。町の古い大工、建具店を探し、骨組みだけを残して改装したんだそうです。立地も含め、こだわりがすごいですね。
彼自身、三味線はもちろん、胡弓も弾ける芸達者な方で、曰く「いろんな民謡をやったが、おわらが最高」とのこと。
ちなみに、おわら風の盆が一躍有名になったテレビドラマ「風の盆恋歌」(主題歌は石川さゆり)は、鍋田別邸を借りてロケをしています。
江尻豊治(1890-1958)

現在のおわらの唄い方を創ったと言われる歌の名手。
なんですが、若い頃を見るとかなりの苦労人でした。10代で志た仕事は病で挫折し、好きな音楽でも(浄瑠璃で生きようとするも)「声が綺麗すぎる」を理由で破門にされ、帰郷。
ここから彼のおわら人生が始まります。彼の歌声や歌い方はおわらを進化させました。
昭和5年に出版された句集「二百十日」の序文には、三味線を従えて町を流す江尻豊治の声に、夜12時頃に200人近い聴衆がいたと記されています。
